こんにちは。
世界一周経験者のぴっぴです。
今回は2016年にパレスチナ自治区で3泊4日の民泊(Airbnb)をした経験をもとに、「イスラエル・パレスチナ問題とはなにか」「パレスチナのリアルな様子(1日目・2日目)」について分かりやすくお伝えします。
イスラエル・パレスチナ問題という言葉を一度は聞いたことがあるという人も多いのではないでしょうか。
歴史・宗教・政治など多くの複雑な問題を抱えるパレスチナを、私たちはメディアのニュースなどでよく耳にします。
でもイスラエル・パレスチナ問題って一体なんだろう?
現地を訪れたとき、私は本当に無知でした。
いろんな人に出会い話をきくなかで、この問題の複雑さや根深さについて思い知ったのです。
パレスチナには日本と同じように、学校に通い仕事をして家族団らんを楽しみくだらないことで笑い合うといったあたりまえの日常がありました。
いっぽうその日常を脅かす危険とも常に隣り合わせで、心穏やかな生活をすでに奪われてしまった人にも出会いました。
正直心を痛めて胸が苦しくなる瞬間が何度もあったけど…
たくさんの優しさにふれていろんなことを見聞きして、現地のことを少しでも知ることができて本当に良かったと、当時を振り返ってしみじみ思います。
あれから3年以上経った今でも、パレスチナは私にとって特別な場所なんです。
パレスチナのためになにか私にできることはないか、ずっと考えていました。
このブログで自身の経験を発信&シェアすることが私にできることなんじゃないか。
どなたかひとりでもパレスチナについて興味をもっていただくきっかけにしていただければ…そう思って記事にすることにしました。
今回はパレスチナ滞在記の『前編』です。
(『後編』はこちら▼▼)
(イスラエル編はこちら▼▼)
- イスラエル・パレスチナ問題とはなにか
- パレスチナ自治区「ベツレヘム」の様子
- 民泊でお世話になったパレスチナ人一家のこと
- 「分離壁」を訪れたときの様子
- 「難民キャンプ」を訪れたときの様子
少しでもパレスチナを身近に感じていただけると嬉しいです。
よし、ボクもパレスチナについて勉強しよう!
「イスラエル・パレスチナ問題」はとてもデリケートな問題で、いろんな考え方や正義があると思います。
できるだけ事実と実体験をベースに書いたつもりではありますが、もしも不快にさせる文章がありましたら申し訳ございません。
パレスチナの基礎情報
そもそもパレスチナってどこにあるんだっけ?
パレスチナは中東に位置しています。
アフリカ大陸とユーラシア大陸を結ぶ「文明の十字路」として、古代から交易や異文化が交わる場として機能してきました。
そんな独特の歴史のなかから、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という3大宗教も生まれたのです。
(出典:CCP Japan「パレスチナ問題とは」)
歴史的にすごく重要な場所なんだね。
パレスチナは、ヨルダンに接する「ヨルダン川西岸地区」と、エジプトに接する「ガザ地区」の2つに分かれています。
私たちが普段ニュースで目にするパレスチナ関連ニュースのほとんどが「ガザ地区」で起きています。
(出典:CCP Japan「パレスチナ問題とは」)
これらのエリアは1994年に「パレスチナ自治区」とされ、パレスチナ自治政府が存在していますが、独立国家ではないんです。
パレスチナは「国ではない」ってこと?
日本はパレスチナを国として認めていない
2019年5月の時点で、国連加盟国193ヵ国のうち137ヵ国がパレスチナを国家として承認しています。
しかし日本を含むアメリカやヨーロッパ諸国など多くの主要国はそれを認めていません。
下の画像の緑部分が、パレスチナを「国家承認」している国々です。
イスラエル・パレスチナ問題とは
よく聞く「イスラエル・パレスチナ問題」って一体なに?
「イスラエル・パレスチナ問題」とはひとことで言うと、イスラエルとパレスチナ間における領土争いです。
概要をつかむための非常にざっくりとした解説になっています。
紀元前、パレスチナにはユダヤ人が住んでいた
今のイスラエルがある場所には、もともとユダヤ人が住んでいました。
彼らはパレスチナの地で国家(イスラエル王国)をつくり繁栄していましたが、紀元前1世紀にローマに征服されて追い出されてしまいます。
ユダヤ人たちはパレスチナを「約束の地」と呼び、いつの日か故郷に帰れる日を夢見ながら泣く泣く世界に散らばっていったのです。
故郷を失ったユダヤ人たちはその後、世界各地で迫害を受け続けることになります。
しかし一方で、キリスト教徒から忌み嫌われていた金融業で成功しお金持ちになるユダヤ人もたくさん出てきました。
ユダヤ人が追い出された地に住み着いたアラブ人
ユダヤ人が去ったパレスチナの地には、やがてイスラム教徒のアラブ人が住み着きました。
このアラブ人が、現在「パレスチナ人」と呼ばれている人たちです。
彼らアラブ人たちにとっても、聖地エルサレムがあるパレスチナは特別な場所になっていきます。
16世紀以降はイスラム系のオスマン帝国がパレスチナの支配者となりました。
いっぽう世界中に散ったユダヤ人はヨーロッパなどで迫害を受けたため、パレスチナ人から土地を買って少しずつ故郷へと戻っていきました。
いっときはアラビア語を共通言語に、イスラム教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒が共存していたんです。
え!共存できてた時代があったんだ…。
しかし19世紀にはいり、オスマン帝国は崩壊の危機を迎えます。
そこで起こった動きが2つ。
- オスマン帝国から独立したいアラブ人の動きが活発化
- ユダヤ人たちの「シオニズム」(パレスチナに故郷再建する運動)が活発化
19世紀末には、お金持ちのユダヤ人によるパレスチナの土地の買い占めが始まりました。
イギリスの三枚舌外交
でも、なぜ共存できていたはずのユダヤ人とアラブ人が、今みたいに対立してしまったの?
実はイギリスの「三枚舌外交」が大きく関わってるんだ。
イギリスの第一次世界大戦における中東問題をめぐる外交政策。
イギリスはユダヤ人、アラブ人、フランスの三者と矛盾する約束をした。
ときは第一次世界大戦。
イギリスはオスマン帝国との戦いを有利に進めたいという思惑から、ユダヤ人・アラブ人・フランスの3者と矛盾した約束を同時に結んでしまうのです。
戦争資金を調達するために「ユダヤ人」には、
パレスチナのユダヤ国家建設を支持するから、経済的支援をしてくれ。
アラブ民族主義を利用するために「アラブ人」には、
アラブの独立を支持するから、オスマン帝国に反乱を起こしてくれ。
そして「フランス」には、
戦争が終わったら領土を山分けしましょう。
戦争ではイギリスの思惑通りオスマン帝国に英仏同盟国側が勝ち、パレスチナとヨルダンはイギリス、レバノンとシリアはフランスの委任統治領になりました。
ユダヤ人はイギリスとの約束をうけ「よし!俺たちの国家をつくっていいんだ!」と世界中から次々とパレスチナに移住し始めます。
ナチスドイツのホロコーストなどのユダヤ人迫害も、ユダヤ人のパレスチナ移住を加速させました。
しかし当然のことながら、もともとパレスチナに住んでいたアラブ人がこの事態を受け入れらるわけがありません。
アラブ人は「イギリスは俺たちの独立を支持するっていったじゃないか!話がちがう!」と反発。
こうしてユダヤ人とアラブ人との対立の溝はどんどん深まっていったんです…
第二次世界大戦を経て、ユダヤ人は強引にパレスチナにユダヤ国家のイスラエルを建国。
これでユダヤ人とアラブ人の対立は決定的となり、泥沼化する「中東戦争」へと突入していくのです。
イスラエルは4度に渡るアラブ諸国との戦争をくぐり抜け、中東一の軍事大国になり、現在もパレスチナの地に入植し続けています。
そうか…ユダヤとアラブは共存していたのに、支配をめぐる第三者の身勝手な振る舞いが衝突の種をまいてしまったんだね…。
その後もアメリカなど大国による介入で事態はより一層複雑になり、パレスチナは昔も今も翻弄され続けているのです。
パレスチナで3泊4日の民泊(Airbnb)
パレスチナで民泊をしようと思った理由
2016年11月末、私は世界一周中にパレスチナ自治区を訪れ、ベツレヘムという街でパレスチナ人の家に3泊4日の民泊(Airbnb)をしました。
民泊(みんぱく)とは、ホテルや旅館などの専用の旅行者用宿泊施設ではなく、個人宅やマンションの空室など、一般の住居に宿泊することを指します。
引用元:ほてりスタ「民泊」
なぜパレスチナで民泊しようと思ったの?
パレスチナ人がどんな暮らしをしているのか知りたくて。
民泊なら現地の人と交流して話をきくことができると思ったんだ。
イスラエルの首都エルサレムからパレスチナまで日帰りで行く人は多いのですが、それだとかなり駆け足になってしまいます。
せっかくならゆっくり滞在し、現地の人とも交流をもちたかったので、民泊(Airbnb)を利用することに決めました。
エルサレムから「ベツレヘム」へバス移動
エルサレムからパレスチナ自治区に移動の日。
ベツレヘムという街に向かいます。
パレスチナは危険じゃないの?
ベツレヘムがあるのは治安が安定している「ヨルダン川西岸」だから基本的には問題ないよ。
イスラエルの「エルサレム」からパレスチナ自治区の「ベツレヘム」まではバスで約1時間ほど。
たった1時間でパレスチナまで行けるんだ!
イスラエルとパレスチナ自治区の境界にはチェックポイント(検問所)が設けられています。
行きのバスでは、外国人である私は何もチェックされませんでした。
パレスチナからイスラエルへ戻るバスではパスポートチェックがあります。
アラブ人の場合、「チェックに時間がかかる」など嫌がらせをされることも多いそう。
バスがしばらく走ると、風景が様変わりしていきました。
ベツレヘムに到着しました。
ひしめき合う店、人々の活気、雑多な雰囲気…そこはまさにアラブの街!
すれ違う人が「Welcome to Palestine!(パレスチナにようこそ)」と明るく陽気に挨拶してくれます。
とある場所でこれからお世話になる民泊の女性オーナーと待ち合わせをしていたんですが…彼女がなかなか現れない。
やばい、場所を間違えたかも!?
アワアワしてたらパレスチナ人のおっちゃんが声をかけてくれて、
「あそこのカフェにWi-Fiあるから使え~」
「連絡取れないなら俺のケータイ使え~」
といろいろ手助けしてくれました。
おっちゃん優しい…
そのあと無事にオーナーのナタリーと合流できました。
おっちゃんありがとう~!
ベツレヘムでお世話になったパレスチナ人一家
民泊でお世話になるお家は、ベツレヘムの有名観光地である「生誕教会」から徒歩1分の場所にありました。
予約などの連絡を取り合っていたオーナーのナタリーはロシア人。
ご主人はパレスチナ人でお子さんが4人います。
私が到着したらみんな温かく出迎えてくれました!
素敵なファミリーだね~♡
なぜ民泊ビジネスをしているのか聞いてみました。
現在ご主人の仕事や娘さんの大学の都合で、ベツレヘムとヘブロンそれぞれの街にある家を行き来しているのだそう。
家が2つあると空き部屋ができてしまうので、民泊で貸し出しているとのことでした。
とにかくみなさん優しくて親切でフレンドリー!
仲良し家族で見ていてとっても微笑ましいんです。
パパさんは英語は話せませんが、ニコニコ笑顔でお茶を入れてくれました。
ナタリーは、
「キッチンは自由に使って、この辺のお茶やコーヒーも好きに飲んでね」
とパレスチナのお菓子やロシア土産のチョコを出してくれました。
お部屋はとても快適で居心地が良かったです。
11月下旬で冷え込みが増す時期だったので、ヒーターを用意してくれていました。
そして一番お世話になったのが、アサド24歳。
学生をしながらeコマースの会社を立ち上げ、顧客を持ってバリバリ働いています。
年齢のわりに大人びていて紳士的。
性格も穏やかで優しく、彼と話していると人柄の良さがよく分かります。
ベツレヘムはイエス・キリストが生まれた街
ベツレヘムはイエス・キリストが誕生したキリスト教の聖地として有名で、世界中からたくさんの巡礼者や観光客が訪れています。
イスラム教徒が多数を占めるパレスチナですが、ベツレヘムにはキリスト教徒も多いのです。
私が訪れたのは11月下旬でクリスマスが近かったので、広場に大きなツリーが飾られていました。
大きなツリー!
アサドが「土曜日にクリスマスフェスティバルがあるよ」と教えてくれたので、私も行くことにしました。
イエスが生まれた場所『生誕教会』
イエスが生まれたとされた場所にある「生誕教会」はベツレヘムの有名観光スポット。
教会の中に入るとパレスチナ人ガールズが話しかけてくれました。
3人のうち2人は看護師として働いていて、もう1人は研修中の学生さんらしい。
すごくいい子たちで話が盛り上がってしまい、教会の警備員の人から「話し声がうるさい」と怒られちゃいました。
ごめんなさい。
生誕教会は339年に完成しました。
教会はローマカトリック・東方正教会・アルメニア使徒教会が区分所有しています。
イエスが生まれたとされる場所は教会の地下。
おぉ、あの人だかりができている所か。
銀色の星形になっているところ。
ここでまさにイエスが生まれたとされているのです。
なんだか不思議な気持ちになるね…。
ちなみにイエスが生まれた場所については諸説あるようです。
生誕教会に行った帰り道、自炊するために食材の買い出しに行きました。
とある市場で食材を探していると、店のおっちゃんが
「ほーら持ってけ!」
といろんな果物や野菜をくれるのです。
おっちゃん、いいんですか…!?
結局、私が買ったのは写真右の玉ねぎ2つだけ。
写真左の顔(笑)はすべておっちゃんがくれました。
おっちゃん優しすぎ!
分離壁へ行く
パレスチナ滞在初日の昼頃から、タクシーをチャーターして「分離壁」を見にいきます。
「分離壁」ってなに?
2002年からイスラエルがヨルダン川西岸地区との境界に建設している巨大なコンクリート壁のことだよ。
イスラエルとパレスチナ自治区の境には「グリーンライン」というボーダーがあります。
しかしイスラエルはボーダーを超え、パレスチナの領土に食い込む形で巨大なコンクリート壁を建設しているのです。
イスラエル側の言い分としてはこちら。
この壁はパレスチナのテロリストから市民を守るための「セキュリティ・フェンス」だ。
しかし分離壁がパレスチナ人の生活を分断し、大きな影響を与えていることから、分離壁の建設は不当な差別であると国連からも非難されています。
村が壁によって隔てられ、学校や職場、病院、自分の畑などに行くための道が閉ざされるといった事態も起きています。
上の図の「赤いライン」が分離壁で、パレスチナの領土をぐるりと包囲しているのが分かります。
さらに「青いドット」はイスラエル人の入植地。
イスラエルはパレスチナ自治区の領土内部に、違法でユダヤ人居住区を建設しています。
パレスチナの領土を勝手に奪ってしまうなんて、許されるの…?
2019年11月のBBCニュースでは次のような記事があがっています。
イスラエルは1967年の第3次中東戦争後、入植地を建設してきた。
現在、約140の入植地があり、計約60万人のユダヤ人が居住している。
引用元:BBC NEWS JAPAN
入植地は一般的に、国際法に照らして違法だと考えられている。
ただ、イスラエルは一貫してこの見方に異を唱えている。
パレスチナは長年、すべての入植地の撤廃を要求してきた。
将来、独立したパレスチナ国家となるべき土地に入植地があると、国家建設がほぼ実現不可能になると主張している。
国際法上は違法ですが、アメリカなど各国の思惑などが絡み合うなかで、イスラエルの入植地建設の動きは止められずにいます。
イスラエルは今のパレスチナをイスラエルの土地にしたいのです。
だから入植地を建設して、安い価格でユダヤ人を呼び込んでいるのです。
それでは実際に「分離壁」を見に行きます。
分離壁へ向かう途中、車内でドライバーのおっちゃんとおしゃべり。
おっちゃんには9人のお子さんがいるそうで「この子の名前は〇〇で…」と写真を見せてくれました。
分離壁に向かう途中、おっちゃんが言いました。
「マイフレンド。あれがイスラエルが建設した入植地だよ」
「あれが…」
遠くの方に見える白い建物群がまさに、イスラエルの入植地。
おっちゃんが言いました。
イスラエルは不当にパレスチナの領土を奪ってくる。
そのせいでパレスチナ人の生活は圧迫されているんだ。
分離壁に到着しました。
雨天だったこともあり、目の前にそびえ立つ壁が不気味さを増しています。
ふと上を見ると、壁の上からイスラエル兵がパレスチナ人たちを監視していました。
ここにいるパレスチナ人は常に監視の目にさらされた生活を送っているんですね。
この壁には、様々な訴えのこもったアートやメッセージが描かれています。
“Free Palestine” (パレスチナに自由を)
“In war there is no winner” (戦争に勝者なんていない)
“Dear Plestine, I’m sorry from Britain”
(親愛なるパレスチナへ、ごめんなさい。イギリスより)
母国の三枚舌外交を申し訳なく思ったイギリス人からのメッセージなのかな…
“I want peace”(平和がほしい)
分離壁のそばには若いイスラエル兵たちが見張りとして立っています。
まだ18歳〜20歳くらいの彼らが、あどけない笑顔で私に手を振って挨拶をしてくれました。
Banksy, Palestine. pic.twitter.com/PaA2H7uNKO
— Dan Larges (@dan_grossi) January 30, 2019
ベツレヘムに点在する「バンクシー」アート
ベツレヘムには社会風刺的アートで有名なバンクシーの作品が点在しており、それが見所のひとつになっています。
歩いていくには距離があるため、タクシーのおっちゃんにいくつかのスポットに連れて行ってもらいました。
『花束を投げる青年』
ガソリンスタンド横の壁に描かれているのは『花束を投げる青年』という有名な作品です。
青年が「火炎瓶」ではなく「花束」を手にしていることから、「武器ではなく愛を」という平和へのメッセージを読み取ることができます。
防弾チョッキを着た鳩
【バンクシー巡り vol.1】
“The dove, complete with an armored vest and bull’s-eye heart target, makes a tongue-in-cheek comment about peace.”— mm/Web Designer @地球のどこか🌚🌝 (@marumarumarmrm) August 19, 2019
こちらのアートでは「平和の象徴」である鳩に銃口が向けられているのが印象的です。
どの作品も強いメッセージがあって考えさせられるね。
パレスチナが置かれている状況の深刻さが少しだけ垣間見えた気がしました。
家に戻ってから、市場で買った野菜を使って晩ご飯用のスープを作ったり、アサドや妹さんたちと一緒におしゃべりをしたりして、楽しいひとときを過ごしました。
難民キャンプを訪れる
パレスチナ滞在2日目。
アサドがアラビックコーヒーをご馳走してくれて、スッキリとした気分で動き出しました。
この日はアサドにお願いして「ベツレヘムの難民キャンプ」を案内してもらうことに。
難民キャンプがあるの?
そう。イスラエル建国で故郷を追われたパレスチナ人が難民になってしまったんだよ。
1948年のイスラエル建国を受けて勃発した「第一次中東戦争」。
このとき70万人以上のパレスチナ人が、イスラエル軍により村を占領・破壊されて故郷と家を失いました。
そこから70年以上の年月を経て、当時70万人だった難民は560万人に膨れ上がっています。
すごい数だね…
UNHCR(国連高等難民弁務官事務所)によると、世界の難民のうち5分の1がパレスチナ難民だそう。
そしてほとんどの難民が、「いつかは故郷へ帰る」という切望を果たせないまま厳しい生活を強いられています。
(参照元:CCP JAPAN 「パレスチナ難民の状況」)
難民キャンプへ行く途中に見つけた催涙弾
難民キャンプに向かう途中、アサドが言いました。
「下を見て。イスラエル兵から投げられた催涙弾が落ちているよ」
きっとこの催涙弾は、パレスチナがイスラエルに対するデモを行なった際に、イスラエル側から飛んできたものなのでしょう。
催涙弾で作られた創作楽器もありました。
カラカラと綺麗な音を奏でていて、なんとも言えない気持ちになりました。
ベツレヘムで2番目に大きい難民キャンプ「アイダキャンプ」
しばらく歩いて到着したのは、ベツレヘムで2番目に大きい難民キャンプ「アイダキャンプ」。
ここにはおよそ6000人ほどの人々が住んでいるそうで、なかには家族を殺された人たちもいます。
難民キャンプといっても、ここにはコンクリート建ての家が密集しお店もあって、普通の集合住宅とさほど変わらないように見えます。
しかし実際には貧しい生活を強いられている人がたくさんいるそうなのです。
アサドが言いました。
ここの住民は光熱費なんかを払う必要がないんだ。
故郷を追われたパレスチナ人たちにとって、この難民キャンプはあくまで一時的な避難場所のはずでした。
しかし彼らは故郷に帰れないまま、70年以上の年月が経ってしまったのです。
この壁に描かれているのは「故郷に帰るための”鍵”をまだ持っているぞ」というメッセージだそう。
アサドが言いました。
パレスチナの人たちは今の異常な生活に慣れてきてしまってるのも事実なんだ。
最近は、以前のような話し合いや抵抗運動をしなくなっている。
これは大きな問題だよ。
そうか…難民キャンプができてからすでに70年以上の時が流れているんだもん。
あまりにも状況が変わらないことに絶望し諦めを抱いたり、抵抗する気持ちすら失う人が増えてくるのは当たり前ですよね。
裕福な難民もいるという事実
さらにアサドが驚くべきことを口にしました。
難民キャンプの住民のなかには、貧しい装いをしているだけで実は裕福な人たちも一定数いるんだよ。
え!どういうこと?
貧しい難民は多いけど「キャンプの暮らしに満足している裕福な難民」もいるという現実があるんですね。
なんだか複雑すぎるね…。
このままの状況は絶対に良くない。
でもどうしたらいいか分からない…
心の中がずっとモヤモヤしていました。
そんななか空を見上げると…「あ!虹だ!」
世界中どんな場所でも、虹は綺麗なんだよなぁ…
中東料理レストランでランチ
難民キャンプの帰り道に、アサドおすすめの「中東料理レストラン」でランチ。
わぁ、おいしそう~♪
フムスというひよこ豆ペーストはパンに付けて食べるそう。
同じくひよこ豆を使ったファラフェルというコロッケをほおばると、うまい。
料理を堪能しながらアサドの仕事にかける情熱の話も聞けて、とても刺激をもらいました。
心から尊敬できる人です。
パレスチナ人兄弟と過ごす夜
パレスチナ滞在2日目の夜、アサドと弟のルスランと一緒に日本食レストランでディナー。
こちら、「クリスマスツリー」と「だるま」のコラボレーションです。
パレスチナにも日本食レストランがあるんだね。
メニューにはお寿司とかあったけど、めちゃくちゃ高くて手が出ませんでした(笑)。
店内はクリスマス仕様になっていて可愛い。
私のリクエストで、人生初の水タバコに挑戦することになりました。
水タバコはイスラム圏で親しまれている喫煙方法の一種で「シーシャ」とも呼ばれます。
香り付けされたタバコの葉に炭を乗せて熱し、出た煙をガラス瓶の水にくぐらせて吸うというものです。
(参考:JT 「水たばこ」)
フレーバーは「グレープ」を選びました。
まずは2人にお手本を見せてもらいます。
こうやって吸って・・・・
プシューとはく!!!
ルスランは水タバコが大好きだそうです。
私も恐る恐る吸って…
プシュー!!
念願の不良デビュー(?)!笑
うまく吸えなかったけどほんのりグレープ味がして面白い経験でした!
アサドも慣れたもんで煙の輪っかを作ってました。
私も挑戦してみたけど全然ダメ (笑)。
3人で和気藹々といろんなことを語り合いました。
日本のこと、パレスチナのこと、仕事のこと、将来のこと、恋愛のこと…。
アプリで面白写真をとったりくだらない話で盛り上がったり、とっても楽しい夜でした。
本当に優しくて素敵な兄弟です。
2人ともありがとう!
こうしてパレスチナ滞在2日目が終わりました。