こんにちは、世界一周経験者のぴっぴです。
今回はパレスチナ滞在記の『後編』です。
2016年にパレスチナ自治区にて3泊4日の民泊(Airbnb)をしたときの経験をもとに「イスラエル・パレスチナ問題とはなにか」「当時のパレスチナのリアルな様子」についてお伝えしています。
前編がまだの方は↓の記事からどうぞ。
パレスチナ滞在前半(1・2日目)では分離壁や難民キャンプを訪れて、現地の複雑な状況に心を痛めた私。
今回の後半(3・4日目)では、街の中心部がイスラエル軍によって封鎖されゴーストタウン化してしまったヘブロンを訪れて見聞きしたことについてお伝えします。
私はヘブロンで出会ったひとりのパレスチナ人男性とともにゴーストタウンを回り、そこでさまざまなショッキングな光景を目の当たりにしてしまいました。
え!なにがあったんだだろう…
胸が締め付けられるような苦しい気持ち、涙がでるほどの温かい気持ちにもなったパレスチナ滞在。
パレスチナの厳しい状況は残念ながら現在も続いています。
たった4日間のなかで得られた経験はごくわずかですが、この記事がどなたかひとりでもパレスチナに興味をもつきっかけにしていただけたら心から嬉しいです。
- ヘブロン旧市街の様子
- 指に傷を負ったパレスチナ人男性との出会い
- 目撃したイスラエル兵による嫌がらせ
- ユダヤ人入植者の青年たちから受けた親切
- お世話になったパレスチナ人兄弟との別れ
- 2020年現在のパレスチナの状況
「イスラエル・パレスチナ問題」はとてもデリケートな問題で、いろんな考え方や正義があると思います。
できるだけ事実と実体験をベースに書いたつもりではありますが、もしも不快にさせる文章がありましたら申し訳ございません。
※一部傷口などの写真がありますので、苦手な方はご注意ください。
(イスラエル編がまだの方はこちらから▼▼)
(中東の旅ルート▼▼)
分断された街「ヘブロン」
ベツレヘムからヘブロンへ移動
パレスチナ滞在3日目の朝。
この日は日帰りでヘブロンという街に行くことにしました。
ステイ先でお世話になっているパレスチナ人兄弟、アサドとルスランの職場と学校がヘブロンにあるため、2人と一緒にバスで移動します。
ベツレヘムからヘブロンまではおよそ30分で到着。
2人が行きつけのパン屋さんで朝食をとることになりました。
うわぁ、美味しそうなパンがいっぱい…
どれも美味しそうで、調子に乗っていっぱい取りすぎたよ。
ドーナツだけ食べて、残りは翌日の朝食にまわすことに (笑)。
兄弟とワイワイしながらの楽しいひとときです。
朝食を食べ終わったら、学校の授業と仕事がある2人とはいったんお別れ。
ひとりでヘブロンの街を散策することにしました。
ヘブロンはムスリムの街
ヘブロンの街は多くの人が行き交っていてとてもにぎやか。
ヒジャブを頭に巻いた女性をたくさん見かけました。
ムスリム色が強い場所なんだね。
ヘブロンの人口は約21万人。
パレスチナ南部に位置し、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地「アブラハムの墓」があることで有名です。
いっぽう三宗教の聖地があるがゆえに、エルサレムと同じく昔から紛争が絶えない場所でもありました。
アサドにとって世界で一番好きな場所はヘブロンなんだそうで、「ヘブロンの人は本当に優しいんだ」と話してくれました。
活気づいたマーケットをしばらく歩くと、だんだんと人の姿がまばらになってきました。
その先にあるのは「ゴーストタウン」。
ゴーストタウン!?
ヘブロンは、街の一部がイスラエルに占領され分断されてしまった街なのです。
なぜヘブロンはゴーストタウンになってしまったのか
ヘブロンは第三次中東戦争のときイスラエルに占領され、1997年のヘブロン合意までずっとイスラエルの支配下にありました。
占拠されたエリアに暮らしていたアラブ人は強制的に追い出され、その区画はゴーストタウンと化してしまったのです。
ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区は、エリアA、B、Cと3つのエリアに分けられています。
- エリアA
➡行政権・警察権ともにパレスチナ自治政府が実権を持っている - エリアB
➡行政権はパレスチナ自治政府が、警察権はイスラエル軍が持っている - エリアC
➡行政権・警察権ともにイスラエル軍が持っている
パレスチナが実権を握るエリアA(赤色)は全体の18%で、上記の地図のとおり7都市のみ。
行政権はパレスチナ自治政府、警察権はイスラエル軍にあるエリアB(灰色)は全体の21%。
そしてイスラエル軍は行政権など全てを握るエリアC(緑色)は全体の61%です。
パレスチナ自治区の大部分はイスラエルによって実効支配されているんだね。
ヘブロンはエリアAなので、完全な自治権があるはずの場所。
ところがなんと、そこからさらに「H1」と「H2」という2つの地区に分割されている特殊な街なのです。
- H1(全体の80%)
➡パレスチナに自治権がある - H2(全体の20%)
➡イスラエルが支配
H1エリアにはパレスチナの自治権がありますが、H2エリアにはイスラエル軍が常駐しています。
問題は旧市街を含むヘブロンの中心部がH2になっていることです。
メインストリートさえもイスラエルに占拠されていて、パレスチナ人は自由に行き来することができません。
パレスチナ自治権を与えられているAエリアなはずなのに、中心部はイスラエルに支配されているってことか…。
ゴーストタウンを歩く
指を負傷したガイド、「タラール」との出会い
それではゴーストタウンの中に入っていきます。
ゴーストタウンに入る手前のストリートで、ひとりのパレスチナ人男性が話しかけてきました。
俺はヘブロンのガイドをしているんだ。
良かったらゴーストタウンを案内させてくれないか。
私は1人で散策するつもりだったし彼に対して警戒心があったので、最初は断りました。
でもしばらく話をするうちに、なんとなく「彼ならガイドを任せてもいいかな」と感じてお願いすることにしたんです。
こちらがヘブロンのガイド、タラールです。
タラールはもともと反イスラエル活動をおこなうグループの中心人物で、イスラエル軍から目を付けられていたそう。
そんな彼が2か月ほど前、ノルウェー人観光客にゴーストタウンを案内していたところ、若いイスラエル兵に突然指を鈍器で叩かれ重傷を負ったというのです。
確かに、彼の指にはとても痛々しい傷が…。
このような鈍器で殴られたそうです。
彼は指のけがが原因で2か月間無職で、完治までにあと3か月間は要するとのこと。
仕事を失ってしまったため、現在はガイドをして収入を得ているのだそうです。
パレスチナ人には厳しいチェックポイント
いざ、タラールとともにゴーストタウンに入ります。
ゴーストタウンに入るには、イスラエル軍のチェックポイントを通過しなければいけません。
パレスチナ人は毎回身分証を提示してチェックを受けます。
ここがチェックポイント。
イスラエル軍が支配しているH2エリアには、20か所以上のチェックポイントがあります。
タラールがイスラエル兵にIDカードを見せて交渉していますが、やけに時間がかかっています。
観光客である私は基本問題ありません。
しかしパレスチナ人であれば、気まぐれで嫌がらせされたり数時間待たされることもざらにあるそうです。
元々パレスチナ人が住んでいたはずの場所なのに…
ゴーストタウンに入ると雰囲気がガラッと変わります。
不気味なほど静まり返ったメインストリート。
通りに面した建物の扉は、イスラエルにより溶接されて閉じられています。
2001年、突如ヘブロンにイスラエル軍やユダヤ人入植者がやってきました。
もともと住んでいた1万人以上のパレスチナ人は強制的に追い出され、荒廃した街にはユダヤ人居住区が作られました。
今では街のいたるところでイスラエル兵がウロウロし、監視の目を光らせています。
あちこちにバリケードがなされ、パレスチナ人の行動の自由を阻んでいます。
どこもかしこも。
タラールの友達だというお土産屋さんのおっちゃんに、コーヒーをご馳走になりました。
おっちゃんは写真が恥ずかしいのか、かたくなに目線外しを貫いていました(笑)。
おっちゃんが心配そうな顔で、タラールに「指の調子はどうだ?」と尋ねました。
タラールがアラビア語で返事をすると、おっちゃんはより一層顔をしかめていました。
かつて栄えた市場のシャッターは閉まったまま
スーク(市場)の中に入ります。
そこはかつての活気があった面影はなく、建物は廃墟と化しています。
イスラエルに占拠されたあとも住み続けているパレスチナ人はいます。
頑張って営業を続けている店もあるけれど、ほとんど閉鎖して通りはがらんとしています。
スークの屋上には、イスラエルの監視小屋がいくつも設置されています。
銃を持ったイスラエル兵が、上からスークを監視しているのです。
上を見上げるとイスラエル兵がじっとこちらを見ていてしていて、ギョッとしてしまいました。
スークの2階や3階にはユダヤ人入植者が住みついているのだそう。
天井に張られたネットは、ユダヤ人が嫌がらせでパレスチナ人めがけて投げてくるごみや卵の落下を防止するためのものです。
持ち主が去って置いてけぼりにされた車。
パレスチナ人がメインストリートに車を乗り入れることはできません。
“Fight Ghost Town, This is Palestine”
(ゴーストタウン、がんばれ!ここはパレスチナだ)
誰が書いたんだろう…旅行者かな?
イスラエル兵の嫌がらせを目撃
ゴーストタウンを歩いていると、突然目の前でパレスチナ人男性がイスラエル兵たちに取り押さえられました。
え!なにごと!?
私「タラール、一体なにが起こっているの?」
“兵士たちは、彼(パレスチナ人)がイスラエル兵と同じカーキ色のジャケットを着ているのが気に食わなかったんだよ”
私「意味が分からないんだけど…彼のなにが悪いっていうの?」
“俺にだって分からないよ。彼らはクレイジーなんだ”
私「そんな…」
幼い子供たちの前で、イスラエル兵がパレスチナ人男性のジャケットを取り上げています。
そしてその横を平然と行き交う人たち。
そうか、私にとっては目を疑う異常な光景だけど、ここでは日常なんだ。
18歳~20歳の若い兵士たちに、果たして善悪の判断ができるのか。
たったいま目の前で起こったできごとについては、正当な理由はない単なる嫌がらせのように見えてしまいました。
2004年と少し古い情報にはなりますが、ヘブロンに常駐していたイスラエル兵たちの戸惑いと葛藤について触れられた記事があったので、一部紹介します。
【一部抜粋】
引用元:沈黙を破った兵士たちの写真展
元兵士の若者が、英語で写真の説明をしてくれました。
■18歳で、いきなり今まで教わってきた善悪と違う善悪をしめされ、混乱したこと。
■ヘブロンに住むパレスチナ人に嫌がらせをする入植者(こどもを含む)に混乱したこと。
■それでも、自分たちは「テロリスト」捜索に忙しいので、パレスチナ人に嫌がらせをする入植者に対してどうすることもできないこと。
タラールとコーヒーを飲みながら語った
タラールが言いました。
ここで俺のガイドは終わりだ。
あとは自由に見て回ってくればいいよ。
彼はここまで丁寧にいろんな説明をしてくれて、とても誠実で優しい人でした。
私「もっとあなたの話を聞きたいの。カフェでお茶をしない?」
もちろんいいとも。
そこからタラール行きつけのカフェに行き、色んな話を聞きました。
39歳の彼には奥さんと幼い子供が2人います。
だけど今は収入がほとんど無く「今月の水道代と電気代はたぶん払えない」とのこと。
もし払えなければ、イスラエルがライフラインを止めてしまうのだそうです。
彼の置かれている今の状況はとても過酷で、話を聞いていて涙が出そうになりました。
しかし私には、彼にガイド料を払ってコーヒーを1杯ご馳走することしか出来ませんでした。
イスラエルは不法にパレスチナの水を奪いコントロールしており、パレスチナは高値で水を買いとっています。
イスラエル側がパレスチナに水を売り渡さないこともあるのだそう。
一方でユダヤ人入植者は水道・ガス・電気など制限なく使用することができます。
実はタラールは面白い経歴の持ち主で、ウクライナに6年間住んで機械工学を学んだり、横浜に2か月間短期の仕事で来日したりしていたそうです。
タラールは言いました。
日本で働いていた時、日本人はとてもよくしてくれた。
日本が大好きなんだ。
彼は英語もロシア語も堪能で、世界情勢のこともよく知っています。
私は彼がとても優秀で善良な人だと思いましたし、日本のみんなにもタラールの思いを届けなければと彼の話を一生懸命ノートにメモしました。
タラールに出会えて本当に良かった。
ありがとう!
パレスチナ人が歩くと銃で撃たれるシュハダー・ストリート
タラルに別れを告げたあと、メインストリートのシュハダー・ストリートをひとりで歩きました。
ここではパレスチナ人は歩くことさえ禁じられています。
もしパレスチナ人がバリケードを超えてこのエリアに足を踏み入れたら、無条件で撃たれるのだそうです。
そ、そんな…
パレスチナ人たちは迂回路を使って遠回りしないといけません。
イスラエルが管理するH2エリアには、およそ2万人のパレスチナ人が住んでいます。
またH2エリアに住むユダヤ人入植者はおよそ500人。
ユダヤ人入植者を守るために約2,000人のイスラエル兵が駐屯しているのだそうです。
ゴーストタウンのあちこちで見かけるイスラエルの国旗。
誰が書いたのでしょうか。
ヘブロンの街の風景を描いた壁画がたくさんあります。
ゴーストタウンに設置された自動販売機は、ユダヤ人入植者やイスラエル兵士たちのためのものです。
荒廃していくヘブロンの街。
どこもかしこもイスラエルのマーク。
複雑な気持ちになるね…。
私がヘブロンを旅したのは2016年ですが、ぜひ2020年の春にアップされた2人のYoutuberさんの動画をご覧いただきたいです。
この2つの動画を見ていただくと、リアルなヘブロンのゴーストタウンの雰囲気が分かるのはもちろんのこと、パレスチナを全く違った角度からみることができます。
そして、どちらの動画にも私がお世話になったタラールが登場します。
え!タラールが?
ジョーブログ『テロリストと呼ばれたパレスチナ人からの日本人への悲痛の叫び!」 (2020年2月公開)
森翔吾さん『パレスチナで受けた人種差別、乗車拒否、ぼったくり』 (2020年3月公開)
ジョーブログさんの動画については私が見たパレスチナの風景そのままでした。
しかし森翔吾さんの動画はパレスチナの違う一面が移っており、正直困惑しましたし、タラールも別人のように見えてしまいました。
色んな角度からパレスチナを知ることが大事だと思ったので、あえて両動画を紹介させてもらいました。
確かに、この2つの動画のパレスチナの印象はまったく違って見えるね…。
ユダヤ人入植者の青年たちとの出会い
ゴーストタウン散策中に、どうにもこうにもトイレに行きたくなってしまった私。
ゴーストタウンの住民に「すみません、トイレお借りしてもいいですか?」と尋ねると、快く自宅のトイレを貸してくれました。
どうやらここはユダヤ人入植者の家のようです。
彼らはこんなゴーストタウンの中で暮らしていて、一体どんな気持ちなんだろう?
居心地悪くないのかな?
お兄さんが「母親の手作りケーキなんだ」と言って、お茶と一緒にご馳走してくれました。
ブラウニーめっちゃ美味しい~!
こんな見知らぬ者にありがとうございます!
その家に集まっていたユダヤ人の若者たちと少しだけおしゃべり。
正直ユダヤ人入植者に対するイメージはよくなかったのですが、実際に彼らと話してみるとすごく親切で優しかったのです。
世界一周していることを伝えると「俺たちも兵役が終わってから世界各国を旅したんだ」と話してくれました。
私がこれから行く予定のインドについてもいろんなアドバイスをしてくれました。
パレスチナ人が追い出されたゴーストタウンに住むことを選んだユダヤ人入植者たち。
なぜその選択をしたのか理由を聞きたかったけど、さすがに初対面でそんな踏み込んだ質問は失礼かと思いやめておきました。
ひとりひとりはみんな良い人ばかりなのに…なぜ?
ユダヤ人入植者たちとお別れをしたあと、ずっとモヤモヤしていました。
イスラエル人もパレスチナ人もひとりひとりと話せばみんな凄く親切で優しいのに、どうして国同士になるとこんな醜い争いになってしまうんだろう…
そう。テルアビブやエルサレムで出会ったユダヤ人も、パレスチナでお世話になったアラブ人も、本当に良い人ばかり。
とても複雑な気持ちでした。
3宗教の聖地「アブラハムモスク」
ゴーストタウンで出会ったオランダ人男性のディビットと一緒に、3宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)の聖地「アブラハムモスク」に行くことになりました。
アブラハムは3宗教の始祖
イスラエルがヘブロンの地を奪おうとする理由のひとつが、ヘブロン旧市街にある「アブラハムモスク」の存在です。
アブラハムは3宗教の始祖で、アブラハムモスクには彼とその家族の墓があるのです。
イスラエルが渇望しているユダヤ教の聖地を取り戻そうと、ユダヤ人たちは力づくでパレスチナ人を排除しているというわけです。
アブラハムモスクは1967年の第三次中東戦争後以来、モスクの一部が分割されイスラエルに占領された状態となっています。
さらにその後、1994年に「マクペラの洞窟虐殺事件」が起きてしまいました。
入植地に住む極右ユダヤ人が銃を乱射し、礼拝中だったパレスチナ人29人が死亡、125名が負傷した。
この事件をきっかけにアブラハムの墓は分断されました。
現在は「パレスチナ人用」「ユダヤ人用」と入り口が分けられ、内部もそれぞれ専用の礼拝所が設けられています。
アブラハムモスクの内部
なかに入るとき、女性は入口でローブを借りて羽織る必要があります。
内部は幾何学模様が描かれていて、今までに見たことがない独特な空間でとても綺麗でした。
空が綺麗です。
日が暮れてきたからそろそろ帰らないと。
タラール、ヘブロン市民の皆さん、どうかご無事で。
1日も早く彼らが平穏な生活を取り戻せますように…。
帰り道にこんな看板を発見しました (笑)。
パレスチナ人兄弟との別れ
ベツレヘムにもどると、広場でクリスマスフェスティバルが開催されていました。
ベツレヘムには穏やかな日常があって、なんだかホッとします。
クリスマスの装飾がいっぱいでとても綺麗。
あら、トウモロコシが美味しそう。
割といいお値段だったけど、どうしても食べたくて1本買いました。
味はいたって普通 (笑)。
ステージでは歌や踊りなどのパフォーマンスがあり、多くの見物客でとても賑わっています。
明日の朝パレスチナを出発してしまうので、お世話になったアサドに一言お別れの挨拶をするために広場で彼を探しました。
アサドも私を探してくれていたようで無事に落ち合うことができ、感謝を伝えました。
アサド、本当にありがとう。
出会えて良かった。
私は心身疲れ切っていて、アサドと別れの挨拶をしたあとはすぐに家に戻りました。
家から見た花火がとっても綺麗…
打ち上がる花火を見ながら、今日ヘブロンで見聞きしたことを思い出していると、自然と涙が流れました。
出発の朝に泣いたわけ
パレスチナ出発の朝。
とつぜん「ルルルルルル…」と、ヘブロンにいるはずのルスランからなぜか着信が。
と同時に「ピンポーン」と家の呼び鈴が鳴って、ドアを開けたらなんとルスラン!
やっほー!
ぴっぴにお別れの挨拶をするために戻ってきたんだよ!
なんと彼は私に別れの挨拶をするために、わざわざヘブロンからベツレヘムの自宅まで戻ってきていたのです。
しかも高校の授業をサボって(笑)。
びっくりなサプライズに感極まって、思わず号泣でした。
彼が私の重い荷物をバス停まで運んでくれました。
「荷物重いでしょ!大丈夫?」と聞くと「最近鍛えたんだよ」と自慢の筋肉を披露してくれました。
純粋で優しくて弟みたいな存在のルスラン、本当にありがとう。
ぴっぴ、パレスチナで素敵な友達ができたね!
最後の最後まで、私にとってのパレスチナはあたたかい場所でした。
帰りのバスではチェックポイントがあり、乗客はみんなイスラエル兵の女の子にパスポートをチェックされました。
あぁ、愛しきパレスチナ。
1日でも早く、彼らの街に穏やかな日常が戻ってきますように。
いろんなことを考えさせられたパレスチナ滞在はこうして終わりました。
私にとってパレスチナはもっとも思い入れのある特別な場所として、ずっと心の中にあります。
パレスチナの今
パレスチナは今どうなってるの?
残念ながら状況は厳しいままなんだ。
現在イスラエルは、パレスチナ自治区内にあるユダヤ人入植地などをイスラエルに完全併合する動きをみせています。
イスラエルが併合を計画しているのは、ヨルダン川西岸地区にある入植地です。
私が訪れたのがまさにヨルダン川西岸地区です。
この「併合計画」について、いくつかの記事の文章を抜粋します。
イスラエルはパレスチナ自治区の一部併合に向けた法制化の手続きを7月1日にも始める。既に事実上の支配を確立しているが、将来のパレスチナ国家となるはずだった領域の法的な併合宣言は「2国家共存」による中東問題解決の道を閉ざしかねない。
引用元:「パレスチナ、遠のく2国家共存 イスラエルが一部併合計画」
法改正によって将来的に入植地を増設する予定地を広範囲にわたり確保することで、ヨルダン川西岸地区の一部に対して実効支配を強化していくということだろう。
引用元:「イスラエル新政権による静かなる併合の始まり」
強者による法の制定と執行が、弱者の権利を侵害し、剥奪を固定化する危険は大きい。併合の合法化が、今後のさらなる占領地の拡大の足掛かりとならないよう、注視を続ける必要がある。
引用元:「イスラエル新政権による静かなる併合の始まり」
そんな…
ということは、パレスチナはもう独立国家にはなれないの?
イスラエル・パレスチナ問題解決の糸口として、二国家解決という案がありました。
イスラエルとパレスチナの間の領土紛争解決法案の一つとして「イスラエルと将来の独立したパレスチナ国家が平和かつ安全に共存する」を目指すことを意味する。
(引用元:Wikipedia)
日本もこの「二国家解決」を支持しています。
しかしもし今後イスラエルが併合を推し進めれば、「二国家解決」の実現は厳しくなるでしょう。
パレスチナ自治政府はもちろん、併合の動きに対して激しく抵抗しています。
かといってパレスチナが独立国家になりうる力があるかといえば、いまいち統一感と力強さに欠けるといった現状もあります。
上で紹介した「森翔吾さんの動画」をみると、パレスチナの教育レベルの低さも個人的に気になります。
イスラエルとパレスチナ双方にそれぞれの正義と主張があり、「イスラエル・パレスチナ問題」の背後には世界各国の思惑が渦巻いているのです。
本当に複雑な問題で、なかなか解決の糸口が見えないね…。
どうにかイスラエル・パレスチナ双方が共存していく道はないのか。
武力や圧力をもってしても新たな憎しみや恨みを生むだけで、何の解決にもなりません。
私たちひとりひとりが問題に目を向けて、世界中で知恵を出し合い議論していくことが大切だと感じています。
また第三者である私たちだからこそ、冷静な視点で双方の立場に立って考えることができると思うのです。
とにかく「知る」ってことが大切なんだね!
そう、すべては「知る」ことから始まるよね。
私もまだまだ知らない世界がたくさん。
これからももっと学ぼう!
まとめ
パレスチナには日本と同じように、学校に通い仕事をして家族団らんをしてくだらないことで笑い合うといったあたりまえの日常がありました。
いっぽうその日常を脅かす危険とも常に隣り合わせで、すでにその日常を奪われてしまった人にも出会いました。
パレスチナを旅した当時の日記に、私は次のように書き記していました。
私は無知すぎた。
だけどパレスチナに来て少しでも現状を知れて、問題に目を向けられるようになって本当に良かった。
日本に帰ったらもっと勉強して、小さいことでいいから自分のできることをしていきたい。
しかし帰国後はとくに行動を起こすこともなく「私はなにもできていない」と悶々としていました。
3年経った今、ブログを通じて世の中に向けて情報発信できることを心から嬉しく思います。
自己満足かもしれません。
それでも、1人でもこの記事をきっかけにパレスチナに興味を持ってくださる方がいるとすれば、それほど嬉しいことはありません。
パレスチナの地に1日でも早く平穏な日々が戻ることを願っています。