みなさんは1994年の「ルワンダ虐殺」を知っていますか?
私はルワンダを訪れるまで、自分が5歳のときに起こったこの歴史的な悲劇についてまったく知りませんでした。
私は2016年にルワンダを訪問し、現地でいろんな方にお会いし話を聞きました。
そこで「ルワンダ虐殺」がどれほどこの国に暗い影を落としているか知ったのです。
一体この国で1994年になにがあったのか。
2つの民族が憎み殺し合いをした、その原因はなんだったのか。
両民族は和解ができたのか。
闇の中で必死にもがきながら光を見出そうとしているルワンダの人々をみて、私も胸が苦しくなったし、いっぽうで勇気も与えられました。
そして思いました。
絶対にもう二度と同じような悲劇をこの世界に起こしてはならない。現地を訪れた人間として、私も学んだことを伝えていきたい。
この記事では、
- ルワンダ虐殺をご存じない方
- 聞いたことはあっても詳しくないという方
向けに、現地で見聞きした体験も含めて分かりやすく概要をまとめています。
- 「ルワンダ虐殺」はなぜ起こったのか
- 虐殺の現場を訪れたときの様子
- 虐殺で手足を失った人々を支援する日本人女性
- 被害者と加害者の和解プロジェクト
- ルワンダ虐殺から学べる教訓
※全体的に重たい話ですので、共感性の高い方などはご注意ください。
ルワンダ大虐殺とは?
ルワンダを語る上でどうしても避けられないのは、1994年に起こった「ルワンダ大虐殺(ジェノサイド)」です。
ある人種・民族を、計画的に絶滅させようとすること。
集団殺害。集団殺戮。
引用元:コトバンク
多数派のフツ族(85%)が少数派のツチ族(15%)を虐殺するという惨劇が起きたのです。
たった3カ月のあいだに、多くのツチ族やフツ族の穏健派が殺されました。
犠牲者の数は約50万人〜100万人と推定され、ルワンダ全国民の10%〜20%にあたります。
民族対立が起こった根本的な原因
一体なにが原因でそんな悲劇が起こってしまったの?
民族問題の原因を作ったのは、ルワンダを植民地支配していたベルギーだったんだ。
実はもともとフツ族とツチ族は、宗教的にも文化的にも大きな違いはなく、お互いうまく共存していました。
しかし1990年代初め頃、ルワンダを植民地支配していたベルギーの統治政策により両民族の関係が悪化します。
ベルギーは支配当時、統治しやすいように少数派のツチ族を優遇し、「ツチ族にフツ族を支配」させました。
そうか。ここでそれまでなかったはずのフツ族とツチ族の差異ができてしまったんだ。
そうなの。民族対立が生まれた根本的な原因だね。
その後のルワンダ独立運動のときには、国を安定化させるためにベルギーは多数派のフツ族を支持するようになり、立場を逆転させました。
独立後は多数派のフツ族が権力を握り、フツ族優位の政治が行われます。
これらの歴史は両民族の対立を深め、断続的な虐殺行為を含む紛争が続き、事態は深刻化していきました。
フツとツチは外国により民族の優劣を押し付けられて憎しみ合うようになってしまったんだね。
1993年に和平合意に至ったものの、その翌年の1994年、フツ族の大統領暗殺をきっかけに「ルワンダ大虐殺」は起こってしまったのです。
「ルワンダ虐殺」についてざっくりと学べる動画がありましたのでシェアします。
(※一部過激な描写もありますのでご注意ください)
一般市民が直接虐殺に手を下した
この悲劇の恐ろしいところは、一般市民が虐殺に直接手を下していること。
根も葉もないフツ族主体のラジオ扇動放送が、一般市民による虐殺の火付け役となりました。
「ツチの武装集団は、村人を装い身を隠している。
隣のツチに気をつけろ。
今こそ君たちの勇気を示すときだ。
鎌やナタを手に家を出るんだ。
俺たちの強さを見せてやれ!」
引用元:世界に拡散する憎悪
放送を聞いた一般住民はツチへの憎悪を募らせ、殺害に加担しました。
一般市民同士が殺し合いをしたということ…?
そう。犠牲者の多くは隣人や同じ村の住民によって殺されたの。
近隣住民が近隣住民を殺した。
教師が生徒を殺した。
医者が患者を殺した。
司祭が信者を殺した。
夫が妻を殺した。
親が子を殺した。
何というおぞましい殺戮でしょうか…
それまで穏やかに暮らしていたはずの隣人が、ある日突然ナタやカマを振りかざして襲いかかってくるのです。
犠牲者の数の多さはもちろん、その殺し方もここで文字にするのははばかられるほど残虐なものでした。
当時の国際社会や国連はルワンダのジェノサイドに対する理解や対応が大幅に遅れ、被害を食い止めることはできませんでした。
こちらの論文▶「徳島大学:ルワンダにおける1994年のジェノサイドが」でルワンダ虐殺についての詳しい考察がなされています。
民間人加害者の罪を裁くガチャチャ裁判
いっぽう虐殺に加担した加害者の数も35万人に及ぶとされています。
35万人も…その人たちはどうなったの?
これだけ数が多いと通常の司法手続きで裁くのは大変だし、皆が刑務所にはいると働き手が減って国力も低下してしまいます。
そこでルワンダでは、虐殺の首謀者や中心人物のみを国際法廷で裁き、残りの民間人加害者についてはその集落の人たちに託しました。
地域の揉め事を解決する村の慣習的な裁判「ガチャチャ」の法廷で、裁きを進めていくようにしたのです。
2002年にルワンダ政府によって設置された裁判制度。
ルワンダ虐殺について未処理の件数が多いため、地域共同体で容疑者を裁くことを目的としている。
ルワンダは四国の1,5倍ほどの小さな国で人口密度も高いです。
被害者と加害者が同じ村で暮らし、日常的に顔を合わせる状況になる状況下で、裁判は「和解の促進」もひとつの目的でした。
裁判で真実を告白した加害者は、懲役ではなく労働奉仕刑を務め社会復帰することになりました。
ルワンダは「被害者と加害者が共存」せざるを得ない国なのです。
みなさんは、自分の家族を殺した人の家の隣に住めますか?
私だったら精神的にもたないような気がしてしまいます…
虐殺の現場となった場所を訪問
ムランビ虐殺記念館
ルワンダ各地にある虐殺記念館のなかで、もっとも生々しく当時の残虐さを伝える場所があります。
それが、首都キガリからバスで3時間ほどの場所にあるムランビ虐殺記念館です。
虐殺の現場となった場所で、その惨禍を伝えるために当時の状態のまま保存されているそう。
記念館があるのは緑豊かな山の中。
こんな平和な場所で虐殺があったなんて信じられない…。
記念館の建物はもともとは技術学校で、当時はまだ建設中でした。
広大な敷地の中に建つ殺風景な校舎。
虐殺が始まった頃、この学校にはフランス軍が駐屯していて、ここに避難すれば虐殺から免れると信じたツチの人々が押し寄せたんです。
しかし実際にフランス軍が助けてくれることはなく、ほとんどの人たちが殺されてしまいました。
校内で殺害された人だけでも4万5千人に及ぶと言われています。
こちらは犠牲者の共同墓地。
入口から入って正面にある校舎には、ルワンダの歴史や虐殺のときの写真などがパネル展示されています。
その展示室を抜けると、そこにはレンガ造りの平屋の校舎がいくつも建ち並んでいました。
ここからさきの見学は、ルワンダ人ガイドの女の子がついてくれました。
女の子「気分が悪くなったら教えてくださいね」
中に入るとムッとするような異臭がしました。
そこにあったのは無数の遺体。
体には石灰が塗られミイラ化しています。
私「そうか、これが死臭か…」
髪の毛や歯が残っていたり、苦しそうな顔をしした遺体もあります。
カマで殴られたのか、頭部が大きく割れているものもありました。
写真を撮ることもできたけど、そんな気分になれませんでした。
私は目を瞑って手を合わせました。
私は大丈夫でしたが、見学中に気分が悪くなる人もかなり多いと聞きます。ご注意ください。
この記念館はとても生々しいと聞いていましたが、やはり衝撃を受けました。
ガイドの女性も被害者だった
ガイドの女の子はなんと私と同い年。
「わぁ、同い年ですね~!」と一緒に盛り上がって、快活な笑顔が印象的な女性でした。
明るい彼女を見て、私は勝手に「きっと彼女は虐殺にあまり深い関わりがないからここで働いているんだろう」と推測しました。
そこで思い切って尋ねてみました。
私「どうしてここで働いているんですか?」
女の子「それは私が強い精神力をもっているからです」
実は彼女は4歳のとき、虐殺により家族を失っていました。
そう、彼女も虐殺の被害者だったのです。
私は一瞬言葉を失ってしまいました。
私「ガイドの仕事は辛くないですか?」
女の子「ここで働いて8か月経つけど、最初の2か月間はいつもひどい頭痛がしてたし展示物を見ることもできなかった。でも今は慣れました」
彼女に色々と聞きたいことはあったけど、どこまで踏み込んでいいか分からず、そこで質問は終わりにしました。
正直言うと、おびただしい数の遺体を目の前にしても、私にとってはその光景があまりにも非現実的すぎて、いまひとつ実感が湧かなかったんです。
でもガイドの女の子から直接話を聞くことで、
- 「虐殺」は確かに現実に起こった出来事だということ
- 当時の記憶が今もずっと人々を苦しめ続けていること
を改めて痛感したのでした。
胸がギュッと締め付けられるような苦しい気持ちになりました。
だだっ広い記念館の敷地内でキャッキャッと笑いながら草取りをする小さな子供たち。
彼らは一体どういう思いでここに暮らしているんだろう。
たった数十年前に虐殺が繰り広げられたなんて思えない、とても穏やかな場所でした。
キブイエにある教会
ルワンダ西部にある湖畔リゾート「キブイエ」という街があります。
山々に囲まれた「キブ湖」の景観がとても美しい場所です。
そんな平和な場所でも虐殺はおこなわれました。
こちらの教会には当時大勢のツチの人が逃げ込み、そして殺されました。
その犠牲者の数は、推定1万人。
教会の壁には「NEVER AGAIN」の文字が刻まれています。
教会の中に入ってみると、がらんとしていて誰もいません。
と思ったら、奥の方で1人のルワンダ人男性が「ポロローン」とオルガンを弾いていました。
その音色はとても美しく心に染み渡ってきて、なぜか涙が溢れてきました。
ステンドグラスが優しく輝いていて、「あぁここでも確かに虐殺は起こったんだ」と思いました。
手足を失ったルワンダ人を支援する日本人女性との出会い
ルワンダの首都キガリにて、とある日本人女性にお会いすることができました。
虐殺や病気で手足を失った人々のために長年支援活動を続けておられる「ルダシングワ真美さん」です。
ルワンダに入る前から真美さんの活動の話は聞いていて、「是非お話を伺いたい」と連絡をさせてもらったところ、忙しい時期にも関わらず快諾してくださったのです。
現地では真美さんと、ルワンダ人のご主人ガテラさんにもお会いできました。
- 1996年にNGO「ムリンディ・ジャパン・ワンラブ・プロジェクト」をルワンダで立ち上げる
- 1997年に義肢製作所を立ち上げる
- 義足や義手、装具を製作し1万人以上に無償配布
- 現地の人たちの人材育成、就労支援
素晴らしい活動だね!
ご夫婦は活動資金を生み出すためにレストランやゲストハウスも建設され、地元の人からも「ワンラブランド」と呼ばれ愛されていました。
「ワンラブ」には虐殺のような民族対立を超え、「一つになって愛し合おう」という願いが込められているそうです。
義肢製作所を見学
ご好意で義肢製作所を見学させてもらいました。
この製作所では年間50〜70本の義肢装具と、400本ほどの杖の製作がなされているとのこと。
義足や杖を作る工程も説明してもらいました。
杖の先にはめるストッパーは、木を削って手作業で行われていました。
真美さんによると、大きなハードルは「ルワンダが内陸国」だということ。
義肢製作に必要なモノを手に入れるために、輸入に莫大な費用がかかります。
コスト削減のために、隣のケニアまでトラックを飛ばして仕入れを行ったりすることもあるそうです。
お2人の活動は基本的に寄付金で成り立っているため、限られた予算の中でやりくりするのが大変だとおっしゃっていました。
そんな厳しい状況のなかでもルワンダの人たちのために尽力するお2人が、とてもかっこいいと思いました。
すごいなぁ~、かっこいいなぁ~!
こんな素晴らしい活動をされている日本人がルワンダにいらっしゃるなんて、感銘を受けました。
とても残念なことに、2020年2月、ルワンダ政府によりお2人の住処でもあった「ワンラブランド」は強制撤去されてしまいました。
義肢製作所も私が宿泊したゲストハウスやレストランも壊されました。
ご夫婦は義肢製作所を新しく再建し再始動するべく奮闘されています。
ぴっぴはこれからのお2人も活動も応援します!
ポンも応援するよ~!!
ルワンダ人の前では「TとF」
真美さんから虐殺についての話を伺うこともできました。
ルワンダ人の大半は当時のトラウマを引きずっているため、基本的に虐殺の話はタブーになっているそう。
真美さんのような現地在住の日本人も、ルワンダ人が近くにいる場所では虐殺の話は控えるか、「ツチ=T」「フツ=F」などとアルファベットに呼び方を変えて会話をするそうです。
最近では親が子供に虐殺の話をするのを控え、その歴史を詳しく知らない子供も増えているんだそうです。
加害者と被害者が一緒に暮らす難しさ
真美さんが以前雇っていた「従業員の女の子の話」も印象的でした。
虐殺により家族を失った彼女だったが、ある日その加害者とバッタリ出くわしてしまった。
女の子に気付いた加害者は、「お前も殺す」と首を切るジェスチャーをした。
加害者と被害者が共存する恐怖を実感しゾッとしました。
きっとこの国には、私たちの想像を絶するような深い深い闇がある。
加害者と被害者が「和解」なんてできるのだろうか…
そう思ってしまいました。
虐殺について話しかけてきたルワンダ人
私が現地でたった1人、「虐殺」について話したルワンダ人がいました。
それはルワンダで移動中、バスに乗っていたときのことでした。
前の席に座っていた若い男性が「きみ、どこからきたの?」と話しかけてきたんです。
男性「日本人なんだね。僕は歴史の教師をしていて、日本の歴史についても詳しいよ」
彼は福島原発のことや広島・長崎の原爆についても質問してきたり、とても勉強熱心な人でした。
そして驚いたのが、彼の方から「ルワンダ虐殺について知ってる?」と聞いてきたことです。
ルワンダ人との会話にこの話はタブーだと思っていた私。
彼が割と大きな声で喋るので、まわりの乗客に聞かれないかと内心ヒヤヒヤしていました。
私「ルワンダの方と虐殺の話をする時は気を付けないといけないよね?」
男性「そんなことない、まったく問題ないよ」
短い時間だったのであまり深い話はできませんでしたが、「当時の辛い記憶は今でも残っている。でも復興のために、ルワンダ人は努力しているよ」とのことでした。
向こうから質問されたので驚きましたが、ルワンダ人にも色んな考え方の人がいるんだなと思いました。
被害者と加害者の和解への道(佐々木和幸さんの活動)
ルワンダ滞在中に、ずーっと私の心の中で渦巻いていたひとつの疑問。
被害者と加害者が和解して共存するなんて、現実的に可能なのだろうか…
長年憎み殺し合いまでしてしまった彼らが、また以前のように仲良くできるようになるなんて、私には到底想像がつかなかったのです。
ルワンダの平和と和解のために働く日本人男性
この謎を解き明かすべくリサーチを進めるなかで、「ルワンダの平和と和解のため」に尽力されている日本人男性の存在を知りました。
それが、「虐殺の被害者と加害者の和解プロジェクト」を運営する佐々木和之さんです。
(当時お会いしたく連絡をさせてもらったところ、残念ながら一時帰国されていて日程が合いませんでした)
その和解プロジェクトのひとつが、「償いの家造りプロジェクト」です。
加害者がボランティアとして被害者のために家を建てる。
そのプロセスのなかで、被害者に罪を告白し、謝罪し、償う。建てた家は「償いの証」となる。
「償いの家造りプロジェクト」に参加した被害者女性のエピソードが紹介されています。
この女性は、大虐殺で傷を負い加害者を憎んでいました。
しかし加害者に家を建ててもらったあと、こう話したそうです。
「あなた(加害者)が心から謝罪してくれ、また罪を告白してくれたことで、私は心が安らぎました。あなたも心安らかに歩んでください。どうか重荷を降ろしてください。これからは、隣人としてかかわりあっていきましょう。あなたの前に立っている私を怖がらないでください。私はあなたを許します」
加害者の心からの謝罪と「償いの家」があったから、彼女は「許す」ことができたのだといいます。
こちらの動画では、実際の「償いの家造りプロジェクト」に参加した2人の女性の和解エピソードが紹介されています。
辛い記憶に苦しみながらも、ルワンダの人たちは前に進もうと努力しているんだね…
うん…彼らの苦しみは癒えることなく、今もずっと続いている。
それでも共に暮らしていかなきゃいけないから、必死に乗り越えようとしているんだね。
「お互いを憎み合っても何にもならない。あの悲劇を2度と繰り返してはいけない。平和に向かって共に生きよう」
そう言って、被害者は加害者を赦し、加害者は自身の罪と向き合い償おうとします。
でも…「憎悪」を断ち切って「人を赦す」って、実際にはすごくすごく難しい。
「家族を殺したあの人が憎い。復讐してやりたい」という気持ち。
「あの人を赦し、自分の心を憎しみから解き放ちたい」という気持ち。
この2つの気持ちの狭間で静かに葛藤しもがき苦しみながらも、ルワンダの人々は前に進もうと日々努力しているのです。
聖書の一説「光と闇」
佐々木さんが取り上げている聖書の一節があります。
「光は暗闇の中で輝いている。そして、闇はそれに勝たなかった」
皆が平和を信じて、希望を持って生きること。
それは決して簡単でないし、綺麗ごとだと言われることもあるかもしれません。
それでも、諦めないこと。現実と向き合い、信じ努力し続けること。
そうすればきっと、小さくても輝く光が闇を少しずつ照らしてくれる。
そんなことを、ルワンダの人々が私に教えてくれたような気がします。
まとめ
1994年のルワンダ虐殺から26年(2020年現在)。
私が現地で出会った方々に話を聞き、知れば知るほど見えてきたのは、ルワンダの闇の深さでした。
あまり心の内を明かさないというルワンダ人。
平和で穏やかそうに見えるルワンダの街を眺めれば眺めるほど、その奥に潜む人々の心の闇を感じ胸が苦しくなりました。
辛い過去の記憶は消えて無くなることはなく、彼らの苦しみは今も続いています。
心をえぐられるような辛い日々を送っている人が今もきっと沢山いるよね…
現在のルワンダは、数十年前にあの惨劇が起こったことが信じられないほど急速に発展し、「新たな国造り」が行われています。
また、フツ・ツチなどの民族を示す身分証明証は廃止されました。
あの虐殺からたったの数十年で驚くべき復興を遂げたルワンダは、「アフリカの奇跡」とも呼ばれています。
しかしそれは、私たちの想像を絶するような人々の苦悩と葛藤の上に成り立っているのです。
今のルワンダが落ち着いているのは、皆があのような惨劇を2度と繰り返したくないと強く願っているからでしょう。
ルワンダの悲劇を繰り返さないために、私たちもその歴史を知り、教訓を胸に刻んでおく必要があると思います。
- 他国により民族の優劣を押し付けられたせいで、2つの民族が憎しみ殺し合ってしまったこと
- ラジオ放送に扇動され一般市民が虐殺に加担したこと
- 国際社会によるジェノサイドの理解が遅れて被害を食い止められなかったこと
- 被害者と加害者の和解はとてもとても難しいこと
たとえばラジオ放送による扇動は、インターネットが発達した現代社会も無縁ではありません。
また現在もアフリカや中東で起こっている地域紛争の多くが、かつての宗主国に責任の一端があることも知っておく必要があるでしょう。
私もっと色んなことを学んで、世界がこれからどうあるべきか真剣に考えていきたいです。
「歴史を知る」って大事だね。
ボクももっと学ぼう!
私が現地で出会ったルワンダ人は、優しくて、少しシャイで、親切な人ばかりでした。
そんな私にとって特別な思い入れがある愛しい国、ルワンダ。
彼らの心にいつか平穏が訪れますように。